2000・アクセスデンギー・オーストラリア選手権


アルバム
出発

世界で最も大きな障害者だけのレースとなる、アクセスデンギー・オーストラリア選手権が2000年2月に行われることを知ったのは、昨年11月、SAILABILITY研究の為と言うことで、メルボルンのアクセスデンギー・セーリング・システムのクリス・ミッチェルの工場を、訪れた時だった。1月にメルボルンで、開かれたディンギー世界選手権の方にも、アクセスデンギーが入っていることをそこで知った。この方は、予想通り、日本セーリング連盟に、オーストラリアからキャンペーンが来ていたが、セーリング連盟では、アクセスデンギーの名前も知らないと言うのが、現状であった。勿論アクセスは、大阪市にある4隻しかないのであるからそれが何物であるのかわからないのは、当然である。 オーストラリアから帰ってくると、大阪の何人かの人が、レースを見学したいと希望していた。その内、同じ行くのであれば、レースに出てみたいということになり、オーストラリアに問い合わせてほしいと、申し出があった。すぐに、ジャッキー・クリス・グラームに、問い合わせてみると、歓迎しますとの事で、行く事に決まった。 大阪から誰が行くのか、最終的に決まったのは、年が明けてからだった。私にとっては、グラーム以外の障害者と一緒に旅行するのは、初めてのことであり、不安が多分に、残っているのは事実だった。セイラビリティ大阪の、藤本さんが、一日遅れの出発になり、サポートしてくれそうな人が居るのか、どうかは、大変大きな問題であったが、幸い、北港ヨットクラブのボランティアから2名と、牛窓ヨットクラブから、2名の見学者があり、視覚障害者2名、電動車椅子が一名、中学生一名を、含む、9名のメンバーは元気に、関西国際空港を、出発していった。 最初の関門は、電動車椅子を、飛行機に積んでもらうことであった。電動車椅子は、大きなバッテリーが積まれており、飛行機にとって重くて危険な物である。バッテリーの電気を完全に切らなければならない、以前、ゆれでスイッチの入った電動車椅子が、荷物室で動いていたことがあったと、飛行機会社の人が言っていた。だが、それが終わると、私達は、ヴィップ待遇となった。 私達一行は、ほかの誰よりも、先に飛行機に案内された。大阪からシドニーまで約9時間無事に済んでいったが、次の関門は、シドニーでの、キャンベラ行きへの、乗換えであった。普通ならば1時間と言うのはちょうど良い時間だと思うのだが、シドニーにつくと、飛行機から出て行くのは、私達が最後であった。私達が飛行機乗り場についた時は、乗る予定の飛行機は、既に、飛び去ってしまっていた。わたしたちは、2時間半、次の飛行機を待たなくてはならなかった。 キャンベラへの、飛行機は、小さなプロペラ機で、車椅子での乗り込みは、荷台用のエレベータが使われた。1時間のフライトは、あっと言う間に、終わってしまった。



キャンベラ到着

キャンベラの飛行場には、サンドラさんと、グラームが私達を迎えに来てくれていた。グラームはシドニーで、車椅子用のリフトのついたバンを借りていてくれた。実際この車が無ければ、私達の移動は困難だったろう。我々の到着した、その時から、車は威力を発揮した。その日の夕方、私達は、オーストラリアの日本大使館で行われるパーティに出かける予定だった。2時間の遅れていた私達は、ホテルに大急ぎで向かい、そして予定より1時間の遅れで、日本大使館についた。 既にパーティは、始まっていた。クリス・ミッチェル、ジャッキー・ケイ、バーバラとニール、ゾルダン、それに、MIDの清水さんと言った昨年グラームといっしょに会った多くの人と、再会することが出来た。 広い庭でのパーティを、私達は思う存分楽しむことが出来た。私達の今回の旅行は、どこからの援助も無く、切り詰めたものだったが、最初に受けた歓迎が、日本大使館だったと言うのは、寸前まで、ロータリークラブの気分の悪くなる会合をしていた私には、皮肉だった。 出発直前に、淀川ロータリーから聞いた、国際交流と言うのはなんだろう。多くの日本の金持ちは、国際交流は、好きでも、自分の国の弱者には、非常に冷たいのである。(彼らの国際交流が、外国の友人を持ってそこに出かけた時に、遊ぶためと言う人がほとんどと言う)外国から見てそれがどんなにコッケイでも、その姿勢を改める人は、簡単には見つからない。自分はそうではないと言う人は、ぜひともメールを送って欲しいものだ。

準備

グラームは実に良く、私達の世話を、してくれた。 彼は、BTグローバルのTIME AND TIDEでいっしょになった友人と一緒だった。控えめの彼は、グラームと一緒に、私達の世話を、やいてくれた。 次の朝、私達は、レース会場のタンガロイ湖畔に、レースの設営を手伝いに行った。それは非常に興味深いものであった。私達がそこについた時、まだテントは、一つも設営されていなかった。 やがて、アクセスデンギーを メ一杯に積んだ10トントラックが、到着した。それぞれの地区から、このような車が、着いているようだ。 多くの参加者は、自分達のボートを持ってきていた。そのほとんどが2.3アクセスで、3.03は、10隻しかなかった。。 クリスは、仮説の組み立ての、ポンツーンを、2基用意していた。この湖は、150名のシースカウトの基地で、設備としては1基のポーンツーンがあるが、それだけでは、120名の参加者には、不充分だ。それぞれのポンツーンには、乗り降り用のリフトが用意されていた。 次々に、持ち込まれてきたアクセスは、時間と共に、増えてきた。その数が増えるにつれ、色トリドリノにぎやかな風景となってきて、ようやく、レース会場らしき、華やかさが出てきた。    これだけ大きなレースが、ほとんど、地元のスピンネーカークラブと、シースカウトのクラブのメンバーで、運営されているのは、参加者の協力が会って初めて可能なことである、それにしても、クリスと、ジャッキーが、いかに、がんばっているのか 心を打たれた。

総督邸でのレセプション

このレースが、オーストラリア総督に、後援されており、総督邸で開かれるレセプションが、魅力だった。レース場の設営を、済ませると、大阪セイラビリティ・藤本氏を空港に出迎え、急いで、ホテルに戻り、大阪で受け取った招待状を胸に入れて、正装して総督邸に、向かった。 日本大使館の近くにあり、ゴルフ場と長い並木道を、通りぬけたところにある、立派な門を過ぎると、目の前に総督邸が現れてくる。私達は、グラームの運転するリフト付の車で中に入った。既に多くのレースの運営・参加者達が、続々と集まっていた。ほとんどの人が、レース会場で見た顔ぶれだった。 今度の大会には、私達の他に、イギリス・ニュージーランドからの参加があった。彼らと共に、私達も、すぐにみんなの輪の中に溶け込むことが出来た。 やがて、全員が呼び集められ、総督と一緒の記念写真を、撮ることになった。 総督は、やさしく私達全員の長旅をいたわってくれた、叉彼のレセプションの挨拶でも、私達に特別の言葉をかけていただき、全員名誉に思った。 私達はオーストラリアのいろんな人から、挨拶を受けた、彼ら一人一人が、私達がこの運動に関心を持ち日本で広めたいと、強く願っていることに、歓迎していた。それは、彼ら全員の願いでもあるからだ。 一部のエリートしか参加できない、パラリンピック中心の競技種目であるヨットを、全ての人に開放すると言う、この運動は、やがては、オーストラリアの誇りになるだろうと言うのは、私の意見である。 実際、ヨットが、一部のエリート達の競技であるというのは、日本に限らず、オーストラリアでも同様のことである。オーストラリアでのヨットに対する社会的な認知には、大変な違いがある事を、大きな声で唱える日本のヨットツウが、居るが、本当にそうなのか、疑問を感じる。 NZでも、OZでも、やはりヨットは、一部のエリートのシンボルである。 それよりも大きな違いは、社会的な地位のある人達が、このような、社会の弱者に対するいたわりを、自分で持ち、それを社会に向けて、応援のメッセージとして出す事である。オーストラリアで、総督の地位と言うのがどのようなものなのか、詳しくは知り得ないが、独立以前のオーストラリアでは、元首であり、女王陛下の代理人と言われたのであるから、日本で言えば、天皇陛下と同じ意味になる。 日本の天皇陛下はアクセスデンギーを知らないが、オーストラリアの総督は、全面的に応援してくれている。これは、日本人にとって大きな違いと言える。 私は出されたシャンパンを、呑む度に涙もろくなってくるのが判ってきた。会場で再び、グラームの奥さんのロレッタに会った。私達が、グラームを、占有しているのを、申し訳無く思った。グラームは、亭主関白と言う奴で、奥さんに自分のしている素晴らしい働きを、説明しないようだ。前回、彼の家に泊めてもらったとき、そのように感じ、彼女に彼がいかに多くの日本人達に、人生の可能性を、与えたかを、説明した(ツモリ)。しかし、今回つれていった、障害者の人達は、私の説明よりも、はるかに素晴らしい証明になったと、信じたいものである。


レース第一日目


朝早く、私達は、レース会場にやって来ると、前日の無風状態が、信じられない強風のコンデションであった。日本チームは、当初二組の参加を、予定していたが、ジャッキーとクリスの好意で、もう一組の参加が認められて、3組の参加になった。叉、ボランティアとしての参加の要請もあり、ほとんどの人がレースとヨッティングを楽しむことが出来た。 日本人が、外国で最も高いハードルとなる、英語のブリーフィングと言う奴が、ほとんど理解できないままに、レースに向かわざるを、得なかったのは、参加者には、大変気の毒なことをした。私自身は、ボートの手配、特にスタート直前で電動のメイン操作が出来なくなり急遽、交換してもらったり、ボートが最後まで決まらず慌てたり、そちらの方にまで、神経を使うことが出来なかった。けが無くレースに、付いて行って、と願うばかりであった。 我々のチームは、ほとんどレースの経験などあるわけが無かった。わが国の社会は、未だ、障害者にセーリングレースの門が開かれているほど、成熟した豊かな人間味のあふれる社会とは、言えないのだから、彼らの経験不足を、責めることなど誰にも出来ない。そしてこの愛らしいアクセスデンギーに触れた二ヶ月前が、初めてヨットに触れたと言う人さえ居るのである。 そんな彼が、最初にレース水面に、向かって出発した時には、私は勿論、オーストラリアのボランティアの人達も同じように熱い物が、こみ上げてきているのが私にはよく判った。私は、レス救ボートに乗りこんだ。全ての電動サーボ・ボートは、レス救ボートにマークされている。当然安全のためである。 我々の、最初のレースは散々であった。スタートを間違ってしまう者、タックする度に、ボートが止まってしまいあせる者、みんなエキサイトしてレースに熱中していた。 ほとんどのボートは岸に直接つけられ、胸まで湖に入っているボランティアの人達の助けで、出し入れされていた。これだけの大きな大会が、無事故に終わるためには、意識の高いボランティアが、必要だと思われた。ほとんどのボランティアの人達は、家族で参加しているようだ。恋人同士で、一つの部署を、受け持つなんて言うのは、すてきなことである。 私は、このレースが、ただの単純なヨットレースでは無い事が、良く理解することが出来た。その日を、共に楽しむことが、どれほど大切なのかを知ることである。そこには、いろんな障害者が集まっていた。みんな、そろって笑顔という、ユニフォームを着ているのである。彼らはそれぞれ命の危機を経験している人達がほとんどである。病気あるいは事故で、失明、手や足を無くしたもの、それぞれが、人生に挫折して、立ち直った、あるいは立ち直ろうとしている人達、生まれた時からそのような状態を強いられている人たちがいる。だが、今はそんなことには関係なく、自ら、セーリングを試みて人生を楽しんでいるのである。 国の旗を背負ってレースをすると言う人が居るが、このレースでは彼らの背負っているのは、彼ら自身の人生だ。一隻、数千万、数百万のボートを、操る一流のヨットマンに比べれば、そのレースは、歯がゆいものかもしれない。しかしこのレースの参加者達の喜びと輝きは、はるかに勝っている。 そう信じて、広めたいと願うのは私の奢りだろうか?


ディナー・パーティで




ース第一日目の夕食は、レース参加者で行われる、ディナー・パーティである。会場は私達の宿泊している、ホテルの隣のスポーツクラブで行われた。食事が終わり、私に与えられたスピーチが済み、楽しい時間がどんどん、過ぎて行った。バンドと歌手の生演奏が、雰囲気を盛り上げている。私達は、最後には、全員舞台に行きダンスを楽しむことが出来た。電動車椅子に乗ったまま、みんなに笑顔を振り撒く我々の仲間は、みんなの人気を集めていた。料理がどんなものであったのかほとんど覚えていないが、それよりも輝いている人達を見ることは、どんな料理よりも素晴らしいものであった。帰る時、私達に、会釈を送ってくれたり、わざわざ挨拶にきてくれる人たちも、いた。


電動車椅子

私達に、大きな問題が出てきた、それは、電動車椅子のバッテリーの残量が少なくなってきたことで、充電をしなくてはならなかったことだ。しかし電圧の違うこの国で、それが可能かどうか、わからないことだった。メーカーに問い合わせどころか、椅子の説明書さえなく、私達は、試してみる以外に、方法は無かった。彼にこの事を、責めても、今更どうしようもない。試してみると、ボンと音がして、止まってしまった。電気の使えない、電動車椅子は、たちまち重い手押し車になってしまった。何とか帰るまでに解決しなくては、ならなかった。こう言う一品物は、ビデオや、パソコンのように、電圧に対応できていないのが普通だが、その時、解決する時間は、なかった。 再び、最終的に、グラームの力を借りなければならなかった。彼は、町に出かけて行き、変圧機を備えた、バッテリーチャージャーを、手に入れてくれた。 再びバッテリーの問題が解決できたのは、キャンベラを、出発するその日の朝の事だった。 このような特殊な機器を、持っていく場合、メーカーに、相談して対策を考えておかなくてはならない。特に電圧の高い国では、機器を壊してしまう事が、ある。(ちなみに、オーストラリアは、240ボルト)

レース第二日目



ース第二日目 前日の強風がおさまり、どんよりとした天候は、夏にしては肌寒くさえ感じられた。その日の一番の目標は、障害者レース世界記録を、更新するレースが実施されたことだった。 この記録は、障害者のレースとしては、世界最大の参加人数となる事、女性の参加人数とその割合が、世界最高の数字を記録していることだ。 (詳しくは、ホームページを参照の事) 一斉に、集まったジェリー・ビーンは、ゆっくりと移動して行く、80隻のアクセスデンギーは、遠くから見ていると、まるで大きな帯のようにみえる。 岸では、参加できなかった人達が、はるか、かなたのその風景を見つめているのだった。(出場できるのは、障害をもつ、エントリーした人だけだ。−当然のことだが。) 記録を作るこのイベントは、参加者達にとって誇るべきことだし、この運動が、多くの賛同者を得ている事を、証明しているのだ。セーリングという言葉が、すっかり忘れられた言葉になって久しいが、色トリドリノ、ボートが帆走しているのを見ると、このスポーツがまだ新鮮な魅力を多くの人達にもたらすことが出きると考える。 我々の選手達も、昨日同様に、四苦八苦と言うところだったが、それでも完走をしてきて喜ぶもの、もう少しで出きると思ったのにと悔しがる者、いろんな思い出が出来て喜んでいた

表彰式 全てのレースが終わると、すぐに表彰式が始まった。私は、この表彰式を、生涯、忘れることが出来ないだろうと、白状しなくてはならない。 私が連れてきた人達が、みんなの輪の中心で、話をしている、それを眺めていると、胸に込み上げてくるものがあった。そして、司会をしていたテリーさんが、特別賞に日本から来た昨晩の電動車椅子のダンサーと、名前を呼んだ時、私はもうその輪の中に居ることが出来ませんでした。続いて私の連れてきた人達の名前が次々に呼ばれた時、周りに居る大勢の人達が、私に握手を求めてくれ、御礼まで言ってくれたのだ。 藤本さんのスピーチも、印象深いものであった。今度は、彼の番だった。私達は、大阪市が用意してくれたネクタイやスカーフを、できるだけ多くの人に配った。 私達一行の、セーラーが優秀であったからではない、自分に挑戦した、彼らの姿勢がたたえられたのだ。ここで得たものを日本に帰って伝えて欲しいと言う、期待も含んでいるのである。私達が、その場所から去ったのは、かなりの時間がたってからだった。 ボートが次々と、持ち主により、トラックに積まれたり、組み立てのポンツーンが、解体されていった。夕暮れ私達は、小さな夕食の会を計画していた。クリスや、ジャッキーに対する感謝を表すことと、私達の喜びを、もう一度、味わいたかったのだ。キャンベラの日本レストランに予約をして、ビールを用意して客達がくるのを待っていた。 グラームは、ここでも全ての用意を手伝ってくれたそしてありがたい事に、ジャッキーとクリス以外にも、司会をしてくれていたテリー、オーストラリアの障害者セーリングの推進者フィル・バーディとも話をする機会を得たのである。 私達の楽しい時間は、果てるのが惜しく思われた。


帰国

帰国 翌日、私達の朝は、あわただしいものだった。グラームの部屋に、バッテリーを取りに行くと、クリス、とジャッキーが、挨拶をしてくれた。私は再び、彼らへの感謝を現さなくては、ならなかった。 これから、出会うだろう困難に立ち向かう時、彼らが常に私の見方になってくれるだろう事を、信じよう。 大切なことは、セーリングが誰でも楽しむことのできる、スポーツであること、人によっては、それが素晴らしい働きをして、その人に影響を与えることが出きるからだ。人は、それぞれ一面の、それもほんの少しのところしか見ないのだから、いろんな誤解が生まれてくるだろう。私に、それらと戦う勇気があるのかと言われるととてもではないが、無い。きっと挫折や失望をしている時間の方が多いと思う。しかし再びキャンベラにみんなと行くために、そして、感激を味わうために、再び広げたいと考えている。 帰国の旅は、乗換えが一度だけと言うこともあり、行きに比べると、藤本さんもおり、楽な方であった。私達が、関西国際空港についた時、大阪北港ヨットクラブの人達が私達を待っていてくれた。